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松山の紹介(その3)

  「松山や秋より高し天守閣」
 この俳句は正岡子規が松山城を詠んだ俳句ですが、松山という名前は1602年(慶長7年)正月15日を吉日として、加藤嘉明(豊臣秀吉と柴田勝家との戦いで活躍した「賤ケ岳の七本槍」の一人)が道後平野の中央に位置する勝山に築城の工を起こし、山の名前を松山と改めたことに始まります。そして1月15日を松山城誕生記念日として毎年この日は無料開放をしています。
 松山人にとっては日常であり幻視でもありますが、夜ふっと息を抜いて星の高さに目をやる時、その視界のどこかに必ず松山城が像を浮かべています。松山のどこからでも見ることの出来る位置にはちょっとした嘉明の思いがあり、築城候補地として、天山、勝山、御幸寺山を徳川家に上申し、勝山に築城の許可を得ています。しかし勝山は、第二候補地でした。当時、徳川家は築城地に第二候補地を選ぶことが多く、嘉明は、希望の勝山を敢えて二番目の候補地として申請したのです。事は嘉明の思い通りに進み、勝山への築城となったのです。
 松山城は1627年(寛永4年)に、25年の歳月をかけて完成しました。築城当時の天守閣は五層でしたが、その後、三層へと改築(天守閣の規模が大きすぎるので幕府に遠慮したためという説と、二つに分かれていた峰を切り崩し埋めた、もともとは谷の位置に天守閣があったため地盤が不安定なので安全を考えたという説とがあります。)されています。
 その後、天守閣は落雷で焼失したため、約150年前の江戸末期に再建されました。現在の建物は、昔の姿のままの総木造となっており、わが国城郭建築史上における最後の作品として注目されているそうです。
 なお、平成16年10月から約2年間にわたり、行われていた国の重要文化財の天守閣など7棟の保存修理工事が平成18年11月に完了しました。松山城には50棟の建造物があり、そのうち21棟が国の重文に指定されています。
 これからも松山市のシンボルとして市民や観光客に親しまれていくことでしょう。
                                               (松山市HP参照)
 松山本部 村上


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